「次に狙うのは横綱」2年ぶり大関復帰の「霧島」 親孝行で角界入りした「不屈の力士」を奮い立たせる愛しき家族【令和の名力士たち】
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毎場所白熱する優勝争い、若手力士のめざましい活躍。令和の相撲人気は高止まりを続けているが、いつの世も真に人を魅了するのは、力士たちの磨かれた技と個性だ。ノンフィクションライターの武田葉月氏が、注目すべき現役力士たちを紹介するシリーズ「令和の名力士たち」。第6回は2026年春場所で優勝を果たし、約2年ぶりに大関へ返り咲いた30歳、モンゴル出身の霧島が登場する。***
毎場所白熱する優勝争い、若手力士のめざましい活躍。令和の相撲人気は高止まりを続けているが、いつの世も真に人を魅了するのは、力士たちの磨かれた技と個性だ。ノンフィクションライターの武田葉月氏が、注目すべき現役力士たちを紹介するシリーズ「令和の名力士たち」。第6回は2026年春場所で優勝を果たし、約2年ぶりに大関へ返り咲いた30歳、モンゴル出身の霧島が登場する。
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2026年大相撲春場所千秋楽から3日後の3月25日、関脇・霧島の大関昇進を告げる使者が、大阪・堺市の音羽山部屋にやってきた。
「謹んでお受けいたします。さらなる高みを目指して一生懸命努力します」
多少緊張しながらも、きっちりと口上を述べた霧島。霧島にとっては、2度目の大関昇進となる。
23年名古屋場所、大関昇進を決めた霧島(霧馬山から改名)だったが、度重なるケガの影響もあって、わずか6場所で関脇に陥落。その間に、以前からの稽古仲間、豊昇龍は横綱に昇進した。
俺だって――。
必ず大関に復活してみせるという思いが空回りしたこともあったが、25年九州場所、前頭2枚目で11勝、26年初場所は関脇で11勝を挙げたことで、一気に「復活」のチャンスが見えてきた。
大関昇進の基準は、一般的に直前の3場所の勝ち星が33勝以上となっている。ただ、特例として、大関から関脇に陥落した場所で10勝を挙げると、1場所で大関に復帰できるというものがある。この「特例」で大関に返り咲いたケースは多いものの、約2年を経て、大関に昇進した力士は少ない。一度失った地位に復活することが、いかに難しいかがわかる。
さて、2026年春場所の霧島は、2日目に美ノ海に敗れたものの、13日目まで1敗で優勝戦線をリードし続けた。後続は3敗の横綱・豊昇龍、平幕・琴勝峰の2人だ。
14日目は、これまで苦手にしていた新大関・安青錦戦。すでに琴勝峰が4敗を喫していたため、「勝てば優勝が決まる」という大一番で、霧島は安青錦に低い体勢で頭をつけられ、下手投げで崩されて敗戦。
ところが、勝負ごとは最後までわからないものだ。
結びの豊昇龍―琴櫻戦で豊昇龍が敗れたため、その時点で霧島の3回目の優勝が決まった。負け残りで、土俵下の控えでこの勝負を見つめていた霧島も、呆然とした顔を見せた。
優勝を決めた後の千秋楽の琴櫻戦で敗れ、「有終の美」を飾ることはできなかったが、12勝を挙げたことで大関昇進に適う3場所34勝となった霧島。
表彰式恒例の優勝インタビューで、
「本当にうれしい。(優勝賜杯は)久しぶりなので、重かったです(笑)」
と、喜びを語っていると、インタビュアーから、
「今、(霧島の)大関昇進に向けて、臨時理事会を招集したとの情報が入りました」
と、事実上の大関昇進決定を告げられた。
「(大関から落ちた)2年は長かった。でもいつか戻れると信じて、諦めずにがんばりました」
と、満面の笑みを見せた霧島。
支度部屋に戻って、後援者や家族との「バンザイ」での主役は、長女・アヤゴーちゃんだった。前回の優勝の時は、たくさんの人に囲まれて恥ずかしさのあまり、うまく「バンザイ」ができなかったアヤゴーちゃん。「次にパパが優勝する時のために」と、練習したバンザイは、霧島の優勝に彩りを添えた。
モンゴルの首都・ウランバートルから東に600キロほど離れたドルノド県で生まれた霧島は、少年時代を遊牧民として育った。
1日に何度も井戸から水を汲んだり、父親の仕事の手伝いで何十キロも馬に乗ったりする生活で、ハグワスレン少年(本名)の足腰は自然に鍛えられていった。やがて、バスケットボールやモンゴル相撲で頭角を現したハグワスレンは、スポーツの才能を生かすために、首都ウランバートルの高校に進学する。
アブラカ高校時代は、柔道やモンゴル相撲に打ち込んでいたのだが、アブラカ体育大に進んだ頃、陸奥部屋(当時)の後援者を通じて、日本行きのチャンスを得た。
「僕を含めて5人が選ばれたんです。でも、その時は力士になるというより、なんとなく日本に行ったという感じでしたね(笑)」
ハグワスレンら5人の少年は、陸奥部屋で4日間の体験入門を終えて、モンゴルに帰国した。
当時の陸奥親方(元大関・霧島)は、自分の部屋に外国出身力士を入門させる意向はなかった。若手親方ならまだしも、50代後半の自分は、言葉や習慣も異なる若者を力士として育てられないのではないか……と思っていたからだ。ただ、ハグワスレンのバランスの取れた体、相撲センス、「親孝行をしたい」と語るまっすぐな瞳を見た陸奥親方は、しばらく経ってから入門させることを決断する。
「ただし、私の言うことが聞けなければ、辞めてもらう」
陸奥親方は厳しくこう言い放った。
こうして2015年夏場所、陸奥部屋に入門したハグワスレンの四股名は「霧馬山」と決まった。師匠「霧島」の「霧」、故郷で馴染んでいた「馬」、一門の大横綱「双葉山」の「〜ばやま」から「山」を用いた、スケールの大きな四股名である。
霧馬山は入門1年で幕下に昇進するなど、出世は順調だった。ところが、幕下上位に上がると、壁にぶち当たる。ヒザの負傷、そして日本の食事に慣れずに、体重が増加しないことが原因だった。また、日本語の理解力も早い方とは言えなかった。
陸奥親方はどちらかと言うと、無口な部類である。親方の師匠、井筒親方(元関脇・鶴ヶ峰)も、稽古場でそうであったように、言葉数は少なく指導するタイプだ。
「最初に私が危惧していたように、コミュニケーションが取れないというのがネックでしたね。ですから、食事に連れて行ったりもしましたが、話が弾まない(笑)。本心がわからないんです。ただ、私が何も言わなくても、毎日黙々と稽古をしていて、『強くなりたいんだ』という気持ちは伝わってきました」
と、陸奥親方は当時を振り返る。
幕下生活3年余りを経て、霧馬山が十両に昇進したのは、19年春場所のこと。
「十両に上がるまで、モンゴルに帰っちゃいけないと言われていたので、本当にうれしかった」
と語っていたように、モンゴルへの帰国を許されたことで英気を養った。また、同年秋、横綱・鶴竜(現・音羽山親方)が井筒部屋から陸奥部屋へ移籍。横綱から直接胸を出してもらう稽古が功を奏して、20年初場所では、新入幕で11勝を挙げて敢闘賞を受賞する活躍を見せた。
その後、2023年春場所では関脇で初優勝。この優勝がキッカケになり、同年名古屋場所で大関に昇進を決める。
昇進をキッカケに、霧馬山は師匠の四股名、霧島へと改名した。
23年九州場所は、翌春定年を迎える師匠・陸奥親方が地元(九州