地域で語り継ぐ努力を 40人犠牲の中金久爆撃から81年 遺族が記憶の風化に警鐘 奄美市笠利町
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終戦直前の1945(昭和20)年8月6日に鹿児島県奄美市笠利町中金久の防空壕(ごう)が爆撃され、40人が亡くなった悲劇から81年。慰霊碑が建つ跡地では今年もしめやかに慰霊祭が開かれた。地域の悲しい歴史を伝える取り組みだが、遺族の高齢化が進む中で参加者の減少が続き、慰霊祭も存続の危機を迎えている。主催する赤木名慰霊碑会会長の重井武洋さん(81)は「今のままではあれだけの犠牲が忘れ去られてしまう。地域で語り継ぐためにもっと努力が必要」と警鐘を鳴らす。爆撃現場は笠利公民館裏手の山裾。当時は民家敷地にあり、所有者の築島吉介氏の名前を取って「吉介壕」と呼ばれていた。2カ所の入り口を有するコの字型をしており、堅剛な防空壕として知られていた。
米軍機による爆撃があったのは午後1時ごろ。壕に避難していた地元住民、青年学校の生徒、喜界町や和泊町出身の教員ら1歳から74歳までの老若男女が犠牲になった。遺体の収容は空襲を避けるため夜間に行わなければならず、1週間続いたという。
重井さんは爆撃で父親の武茂さん(当時43歳)を失った。7人きょうだいの末っ子だった重井さんは爆撃の2日前に生まれたばかりだった。重井さんは「一瞬で命を奪われた父の無念はどれほどだったか。今でも思いは尽きない」と唇をかみしめた。
遺族らは戦後30年の75年に防空壕跡に慰霊碑を建立。慰霊祭は毎年欠かさず行われてきた。存続には次世代への継承が課題だが、現在の会員は13人と減少が続いている。慰霊祭を縮小する案も出たが、重井さんは「一度縮小すれば修復は困難。今でも東京や沖永良部から慰霊祭に訪れている遺族のためにも継続したい」と決意を語る。
さらに重井さんは「同じ日に原爆を落とされた広島については町内放送があったのに、赤木名で起きた爆撃のことは一切触れられなかった。規模は違っても戦争の犠牲という点では何も変わらないのに」と指摘。
戦争の語り部が減り、戦禍の記憶が薄れつつある中で、地域を襲った惨劇と悲しみを次代に引き継ぐための取り組みとして「郷土教育で学ぶ機会を設けるなど、記憶の風化を防ぐための努力が要る。行政はもっと積極的に関わってほしい」と訴えた。